2021年05月23日
《晴天の牢屋》

昨日未曽有の大雨が嘘のように、
青空と、心地いい風と、
乾いた大地がそこにあった。
ボールを追いかけ、
家族が集い、
大切な人と、
大切なことを、
共に分かち合える日は当然のように、
目の前にいつも用意されているものと思っていた。
しかし、
私たちの実生活に常に寄り添ってきたのは、
そんな幸せで温かいものばかりではなかった。
生老病死とは、仏教の言葉である。
生まれて間もなく、私たちは常に、
老いと、病と、そして死というものと
向き合わねばならない。
他方で、私たちは、ただ生きるのではなく、
文化的で、健康的で、共に分かち合い支え合える、
そんな社会性に富んだ関係性に、
生きがいと叡智を求め続けてきた。
自然にあらがわずに、
その苦悩を、社会性でもって克服してきた。
生きるとは、そういうことだった。
その生きがいが、
あらぬ方向に人々を誘導し、
奪われようとしている。
グランドが、どうしたのかと
問うている。
使わないのかと、
不思議そうに見ている。
こんなに晴天で、
こんなにいい風が吹いて、
こんなに乾いた大地を、
お前たちはなぜ放棄しているのかと。
この晴天だからこそ、
使えない現実、
試合ができないもどかしさは、
却って心をえぐる。
論拠の薄い、
ただそういうものだとさえ言わんばかりの、
この「空気」というものが支配した今の社会。
命が大切なことくらい、
誰だってわかっている。
命が大切《だからこそ》、
今こうして、生き方を問うている。
グランドがこうして放置される論拠を、
正確に知らせない意味を問うているのだ。
実証の乏しい事象を前に、
さもそれが善の行為であるとすることほど、
醜いものはない。
今日、5月23日に、この青空の下で、
本来、文化的で健康的な生き方が実現するはずだった、
幾重にも及ぶ水泡の思い出たちは、
今日こうして無念の順延となったこの事実でもって、
未来永劫、語られるべきだろう。
そして、わたしたちは、
決してあきらめず、
問題なく開催できるはずであったことを
いつの日か堂々と、語る日が来るのだろう。
物音ひとつしない、
乾いたグランドに立ち、
晴天を仰ぎ見る。
何もないはずの青空の奥に、
どんよりとした暗いものを
見た気がした。
まるでわたしが、
牢屋にいるようだった。
帰路の途中、
グランドに入れてもらえなかった子供たちが、
ユニフォームを着て、
狭い道をひたすらに、
密集しながら駆けている姿を2度見た。
マスクを着けて、息を切らし、
駆けていく姿だった。
いいか、こういうことだ。
この惨状さえも、
俺たちで、希望に変えるんだ。
今こそ、つながるときなんだ、と。
もう一度だけ、空を見た。
見返してやろうと、思った。
